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【世界旅ブログ】アジアの辺境・奥地へ

【鉄道でミャンマーへ!?】ビルマ縦断の旅:序章その壱:泰緬鉄道の軌跡を追って

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ビルマ縦断の旅に出ることを決めた時その前に一つ行っておこうと思っていた場所があった。

それは泰緬鉄道の走るバンコク西部カンチャナブリ地域である。

泰緬鉄道は太平洋戦争の時に日本軍がタイからビルマまで通した鉄道である。

建設に携わったロウムシャにとっては過酷な作業を強いられた事で知られている。

LCCでバンコクへ向かうため成田空港第三ターミナルへ向かう。

 

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京成線成田空港第二ターミナル駅からコンコースを10分から15分程歩いていくと第三ターミナルへ到着。

空港ながら天井に配管が見えていたりと第一・第二ターミナルの整った感じとは全く異なる雰囲気である。

 

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エアアジアのチェックインカウンターを探すのだがどこにも見当たらない

聞くとエアアジアはLCCにも関わらず第二ターミナルから出るのだとか。

LCCだと思って勝手に第三ターミナルと勘違いしてしまったが, 確認すると第二ターミナルからと確かに書いてあった。

急いで通り過ぎていった第二ターミナルへ戻る。

建物に入りチェックインカウンターを見渡すもエアアジアが全然見つからなかった

変だなと思いよくよく端っこの方を見ると申し訳程度にエアアジアのチェックインカウンターが玄関口横にあったのだ。

 

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預け荷物もないためチェックイン自体は一瞬で終了。

出国を済ませてゲートへ向かうとこのターミナルの一番端っこであった。

LCCだから端っこに追いやられているのだろうか。。

 

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バンコクドンムアン空港へ到着。

スワンナプーム空港とは異なり鉄道が走っていないため三万円ほど両替をしてからバスでBTSのあるモーチットへ向かう。

値段は忘れたがタクシーを使うのに比べれば信じられない程安かった。

駅ではお馴染みの串焼き屋台にて小腹を満たす。

タイでは腰を落ち着けて食べるよりも歩きながらチョコチョコ屋台で買い食いするのが自分流だ。

何より味も妙に病みつきになってしまう美味しさ。

 

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翌朝カンチャナブリへ向かう。

朝ホテルを出ると目の前には巨大な清掃車にゴミが山のように積まれていた。

BTSでチャオプラヤ川西岸へ移動する。

 

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河を渡ったところのウォンウィエンヤイ駅で降りてバイタクを拾いトンブリー駅へ移動する。

この駅にはBTSで直接行けないのでタクシーかバイタクを使う必要があるのだがチャオプラヤ川を渡るのには渋滞に引っかかる可能性があるので先にBTSを使って川を渡っておいた。

駅は建物の形をしておらず, チケット売り場のとこだけ屋根があるもののほぼ青空駅である。

当然ながら誰でも出入りできるのだがタイ最大のターミナル駅であるフアランポーン駅と違って西に行く路線しかなく利用客が少ないのだろう, あまり雑然とした感じは見受けられずすっきりとした印象。

行き交う人達も駅というよりその目の前に広がる市場を訪れる人が多いようだ。

 

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駅の玄関口に居座る犬。

いよいよ電車も出発だ。

 

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列車はのどかな景色の中を進んでいく。

いかにもタイらしいゆるっとした風景と人の生活が垣間見られる。

 

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カンチャナブリ駅に到着。

途中で汽車も発見?

 

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クウェー川鉄橋駅はパラソルの市場になっていた。

 

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クウェー川には多くの観光客が押し寄せているのだが, 列車が通過する際にはこうして橋の避難場所にて待っている。

 

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カンチャナブリの有名なクウェー川鉄橋を一旦超えて更に奥にあるタムクラセー駅へ到着。

ここは断崖絶壁に建てられた木造の鉄道橋が建設されており今日でも使われているのだ。

 

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駅前は観光客用の店舗が軒を連ねる。

団体ツアー客も多く来ているようだ。

 

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川沿いは絶好のインスタ映えスポットで皆して記念撮影に講じている。

 

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鉄橋、というより木橋を歩いていくと途中には洞窟寺院もあった。

観光客の中にはしっかりとお参りする地元の人の姿も。

 

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せっかくなのでこのまま橋を渡り切って隣の駅まで移動することとした。

奥まで行くと観光客もほとんどいなくなるが結構な距離である。

だが景色が雄大で飽きることはなくちょうど良い。

 

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隣駅へ到着。ここは観光スポットというよりもロッジが立ち並ぶ落ち着いた場所で子供用の遊具がそろっている。

観光客でごったかえすというよりもハイクラスな人をターゲットとした遊休地だ。

駅舎には列車を待つファミリーの姿があり, 時間まで暇なので子供達と遊んだりして時間を潰す。

 

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駅そばにあった屋台で一服。

タイ茶を頼む。タイ茶は独特のまったりした甘みの紅茶でタイの風土によく合う。

 

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そんなこんなでとうとう列車が奥に見えてきた。

ディーゼル車らしいいかつい外観。

 

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乗車すると結構な乗客がいた。
といっても団体観光客であり特定の区間だけ乗車する人達である。

 

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【ランプーン街道の巨木並木】北部インドシナ半島縦断その2:天高くそびえるヤーンの並木道


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チェンマイにてバイクを借りてランプーンへ移動。目当ては、

ランプーン街道と称されるヤーンの巨木が連なる並木道

チェンマイ市内旅行者が集まるローイクロ通りのレンタルバイクショップにてまずバイクを一日借りる。

レンタル料金は一日200バーツ。

チェンマイ市内は一方通行が多いため、ある程度地図を頭に入れてから移動する必要があるが、ローイクロ通りからピン川を渡ったところを右折するだけでランプーンまで行く事ができるので迷うことはない。

 

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出発後すぐにランプーン街道に入れたが、並木道の前に途中の市場で朝飯を済ませる。

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タイでは市内中心部からちょっと外れた場所にこのような屋根付き市場をしばしば見かける。国王の写真が飾られているのもタイならではの光景だ。おそらく以前は前国王の写真が掲げられていたのだろう。

こういった観光客がめったに寄り付かない市場は地元値段で買うことができるので、面倒な交渉もなくリーズナブルで嬉しい。

 

ランプーン方面へ南下していくと直ぐに巨木の並木道があらわれる。

 

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ソンテウが走る二車線道路を挟み、天高く伸びるヤーンの巨木が道の奥まで連なっている。

これほど背の高い木々が連なる様子は圧巻である。たまに走る大型トラックの何倍もの高さである。

熱帯タイの陽射しは強いが、巨木が日陰を作ってくれており、ずっと過ごしやすくなる。

かといって木々の間隔はそれなりにあり、枝の位置が高く、木の高さの割には葉っぱの量が少ないからか、日本の日光杉並木街道のような薄暗い鬱蒼とした雰囲気はない

 

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途中でCafe Amazonを見つけたので, 立ち寄ってカフェインチャージ!

Cafe Amazonはタイで一番店舗数の多いチェーン店で国営石油会社が経営している。

そのためかStarbucksのように街中よりも, ガソリンスタンドに付設されている事が多い。値段はスタバのように高額ではなく, 地元値段なのが有難い。

しかもこの店舗はテーブルがガラスになっていて, 下に花が敷き詰められており, お洒落だった。

 

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 ソンテウサイドカー付きのバイクも頻繁に走る南国らしい並木道であり、世界の絶景道路写真集などでも紹介される道だから、走っているだけでも楽しい。

しばらく走っていたが、自分のように途中で写真を撮っている旅行者の姿は見かけなかった。まだまだ旅人には知られていない光景なのであろう。

発展途上のタイではこれからもどんどん自家用車が増え、インフラ増強も必要となっていくだろうが、なんとかこの並木道を未来へ保存していってほしいものだ。

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しばらく走り、チェンマイから20-30kmほど行くとランプーンの市街エリアへ辿り着く。郊外の小さな市場も地元民で賑わっていた。

www.thailandtravel.or.jp

 

ランプーンの歴史

このランプーンの町はかつてハリプンチャイ王国の首都として栄えた。

まだラオスやライの主要民族であるタイ族 (小タイ族やラーオ族)が現在の中国から南下してくる前の時代であり, ハリプンチャイ王国少数民族であるモン族の王国として栄えたのだ。

その後はクメール族との戦争やコレラの流行を経て, タイ族ラーンナー王国創始者であるマンラーイ王の攻撃により陥落したのである。以降はラーンナー王国が現在のタイ王国北部地域の基礎をチェンマイを中心都市として形作っていき, ランプーンも首都チェンマイの衛星都市として発展した。

チェンマイの象徴である広場に建つ三人王像の中心に立っているのが, マンラーイ王である。

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バンコクチェンマイ間の夜行列車で移動すれば途中でランプーン駅 (写真) に止まるのだが、この町で降りる旅人は少ないだろう。しかし、この並木道は一見の価値があるので、是非チェンマイ訪問者には足を運んでいって貰いたいものだ。

 

タイ族が南下してこのタイ北部地域を形作っていった一方で, それ以前に支配したモン族はミャンマー拠点を移してゆく事になる。

しかしながら, モン族はタイ王国の山岳部にも少数民族として残った者達がおり, チェンマイ郊外にもモン族の村が存在するのだ。

ランプーン市内にあるハリプンチャイ国立博物館を見てからは, この村を見に行く事とした。

chiangmai43.com

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【日本軍トンネルをくぐった絶景】インドネシア横断旅:前編その六:ブキティンギ

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遂にスマトラ中部のブキティンギへとやってきた。

 

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少し休んで外を歩くと街のメイン通りには豪華な歩道橋が建っている。

後で分かったが, これは街の動物園の中にある施設だった。

 

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メイン通りから雰囲気のある路地裏を抜けていくと特徴的な屋根の家が。

この建築様式はこの地域一帯の伝統的なものミナンカバウ文化と言われるものだ。

路地ではちょっとおしゃれな落書きも発見した。

 

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ちょっと君の名は的な雰囲気もある階段を上がった通りは動物園に繋がっていた。

道路に面した入り口から混雑していて観光客用の馬車の列がもできている。

 

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外国人客用は少し高めの値段設定だが, それでも150円程度の入場料である。

 

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やはりスマトラ島といえばスマトラトラ

中の動物園はそこまで大きくない。

しかし動物展示だけでなく, 博物館遺構が展示されていてピクニックしている人も多い。 

単純に動物を見る目的というよりも公園として市民の憩いの場になっている感じだ。

 

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美しいミナンカバウ様式の建築物が公園の中心となっていた。

建物の内部は文化博物館となっていて昔の白黒写真や民族衣装等が展示されている。60,000ルピア。

訪れている地元の人は王族の衣装を着て記念撮影にいそしんでいる。

 

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これまたミナンカバウ様式の門を抜けると最初に道路から見た歩道橋を渡れる。

この上からだと町全体が見渡せる。背後に山が控えていて高原地帯の様相だ。

 

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歩道橋を渡った先にはオランダ統治時代の遺構であるコック要塞だ。

といっても建物自体は大したものは残っておらず, ちょっと名前負けしている。

 

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ここの周りでは乗馬体験を楽しんでいる人たちが大勢いた。

コック要塞側の出入り口から動物園を出て下町の路地を下っていくと, ちょうどゲストハウス前の通りに出てきた。

 

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一旦ホテルに戻り, 一休憩してから再び外出。

こちらは商店街だ。田舎町だがSHARPLGなど海外企業の看板も。 

 

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奥には通路が狭いが更にローカルな市場もある。

壁側の向こう側には広範囲に市場が広がっていたそうだが, 大火事で焼けてしまい今は閉鎖しているそうだ。

 

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上も市場の一角だが, 赤い屋根で統一されて赤い傘が吊るされていてお洒落な通りになっている。

 

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インドネシアにおける独立の英雄と言えばデビ夫人の旦那である

スカルノハッタの二人だ。

 

ジャカルタにあるスカルノ・ハッタ国際空港の名前の由来である。

 

そのうちの一人ハッタは故郷がブキティンギであり, 生家がハッタ博物館として残されている。

 

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そしてグラブのバイクタクシーで100円程払って, いよいよパノラマ公園

ここが一番面白かった観光地だ。

 

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150円払って入場すると, いきなり絶景が目の前に広がる。

更に日本軍トンネルの入り口を発見。

 

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でかでかとLobang Jepangと表示されている。

LobangトンネルJepang日本を意味する。

入口の前にたむろしているのは記念写真を撮る観光客と外国人相手にガイドをして生活の糧にする人達だ。

彼らいわくこの中のキッチンでインドネシア人が殺されていたという話が伝わっているそうだ。

(ただし最近の事実検証によりそういった説明文は撤去されたそう)

 

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トンネルの中は結構深い

降りていくのは良いのだが帰ってくるのは息が切れる。

よくこんな深い場所を掘ったなと感心するのだが, 作業をしたのは駆り出された地元の労務だそうです。

なおインドネシアではロームシャとしてそのまま通じる。

 

中はかなり広く相当な人数が動員されていたと思われる。

 

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トンネルを出た反対口には休憩所があったのでコーヒーを一杯飲む。

近くにいたガイドの人と話をした。

38歳でジャカルタに子供もいて時々会いに行くそうだが旦那とは離婚しているそうだ。

旅行代理店に勤めていたので多少の日本語を介する。

今は外国人相手にフリーのガイドをして稼いでいるそうだ。日本人も一日一人くらいくるそうだ。

 

200円程度で売店で買ったタバコとコーヒーを勧めるとタバコは甘みのついたインドネシアのものしか吸わないそうだ。 

この人が地元の逸話を紹介してくれた。

昔はロウムシャとして多くの人が亡くなったが, 今も日本人に一日一人インドネシア人が殺されているんだとか, トヨタさんやホンダさんやスズキさんに。。。

(注:インドネシアでは交通事故で亡くなる人が多いというブラックジョーク)

 

 

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トンネルを通って入口に戻らず, 丘を越えていくルートで帰っていたところ途中に墓地があった。

 

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そして展望台からは渓谷の光景が。

 

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それからゴジェのバイクタクシー100円程でバスターミナルへ行ってパレンバンまでの長距離バスチケットを2500,000ルピア(1800円程)で購入した。

夜中で暗かったため結構危なっかしい雰囲気もあったが, 問題なく購入できた。

ただし, どうやら実際に乗るバス会社はここの店とは別のようだ。

夜はここしか開いていないのでしょうがないが, 昼間に直接バス会社で購入していればもっと安く済ませられただろう。

 

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この日は晦日時計塔の前には多くのインドネシア人が集まってきている。

地元の人はここの時計塔広場で年越しをするのが定番だそうだ。

 

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自分は周りと一緒に年越しまでしたかったが, 前日からの夜行バスの疲労と明日からまた夜行バスに乗らなければならないので早めに宿に戻って休むこととした。

 

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【メッカのベランダ】インドネシア横断旅:前編その二:アチェで考える津波と戦争と平和


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翌朝はホテル(何故か大量のぬいぐるみが販売されている・・・)のバイキングで朝飯を済ませて, 津波博物館に向かう。

ここは英語名だとTsunami Museumである。

 

グラブで頼むと女性ドライバーだった。イスラムの戒律が厳しいこの地域だが, 女性が働くことには寛容のようだ。知り合ったガイドの娘も大学に行っていると言っていたし, 女性の権利が制限されている雰囲気は感じられない。

 

とはいえアチェ州では公衆の面前での愛情表現が禁止されるなど, 保守的なので気を付けなければならない。

最近もこんなニュースがあった。

www.newsweekjapan.jp

 

タクシー車内はピンク色を基調としておりハローキティグッズに溢れているのが, 日本の田舎で軽自動車を持つ若い女性のイメージと似ていて面白い。

タクシーはUberで100円程度だった。

 

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津波博物館はスマトラ沖地震の様々な展示がされていて, 地元の人もたくさん訪問していた。

早速チケットを購入して中に入る。料金は77円ぐらい。

 

外国人は受付で国籍を記入しなければならない。

聞くと日本人もちょいちょい来ており数日前には展示会で沢山来ていたそうだ。

 

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館内には津波の事を思い出したくない人や体の弱い人は入館しないように注意書きがされていた。

 

※ここから先は津波関連の写真が沢山でてくるので抵抗がある方はご遠慮下さい。

 

 

 

 

 

 

被災したヘリコプターの展示を横目に館内へ入っていくと, 水の流れていく音が聞こえる真っ暗な通路をしばらく歩く。

 

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足元が見えないほど暗いため結構ドキドキなのだが,

通路を抜けると一人一人の犠牲者の名前が壁に書かれた部屋にたどり着く。

写真では分かりにくいが, 四方の高い壁全面に小さく名前が書かれているのだ。

 

死者数は報道等で分かってはいるのだが, このように個人名が並ぶと一人一人に自分と同じようにそれぞれの人生を抱えていた者達が如何に多く亡くなった事か, どこか他人事のように聞こえていた話が急に身近で起こったものとして感じられた。

 

震災は悲しみの記憶であるが, 一方で世界各国から救援チームが駆けつけて活動が行われた。そういった面を記憶していくための絵画も展示されていた。

 

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震災時にはオールドテクノロジーが役立つ。

日本でも東日本大震災後に機能しなくなった東北本線の代わりとして石油を積んだ古いディーゼル機関車磐越西線を走ったし, 携帯も機能しないような災害時に便利なラジオの力が改めて認識された。

 

ここでは象の力が瓦礫撤去(人力ならぬ象力?)などに役立てられたようだ。

 

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津波に飲み込まれる街の模型展示も。

 

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上の階には薄暗い照明の中で津波にあった家屋の様子が再現されていた。

また短冊のように沢山のメッセージを記載したものが吊り下げられたコーナーもあった。中には日本語のメッセージも散見された。

 

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そして日本コーナーもあった。東日本大震災の写真も展示されている。

 

浜口梧陵という人の特集展示がされていた。

彼は幕末の和歌山で津波安政南海地震)があった際に到着前の避難や被災後の復興に尽力した人で,

国連が定める津波の日の元ネタになった人物でもある。

 

彼の活躍は稲むらの火として戦前では国語の授業の教材であった。

www.yamasa.com

 

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博物館の吹き抜けの天井には救援活動に尽力したのであろう各国の国旗が。

博物館の外は子供達の遊び場と化している。

この博物館の素晴らしいのは記憶を展示するのみならず, 災害時には避難所としての機能を有していることだ。

 

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博物館は一時間半ほどで見学を終えて, 二ブロックほど先にあるグランドモスクへ移動。

インドネシアではこのように道路に穴が開いているため, 下を見ながら歩かなければならない。

 

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グランドモスクは流石に圧巻だ。

東南アジア一のモスクとの呼び声も伊達ではない。

入場には靴を脱いで預ける必要がある。

 

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市民の憩いの場としての役割もあるのか, 何をするでもなく皆思い思いに過ごしている。

中には結婚式の写真や動画を撮影している人たちも。

津波の時は何百人もの人達がここに避難したそうだ。

 

宗教施設でもありながら地域の集会所としての役割もあるみたいで, 観光用というよりも地域に根付いた施設となっている。


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この後はまた100円のUberでホテルへ一旦戻ってチェックアウトを済まし、前日に購入したバスチケットでアチェ州第二の街であるロクスマウェを目指す。

バンに乗せられて一旦バスターミナルへと移動して、そこで乗客が全員載せられて出発する。この際に再度チケット代をしつこく要求されたのだが前日に支払い済みだと何度か主張したらことなきを得た。前日に払ったバス移動費は120,000ルピア。 

 

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バンダアチェの空港に降り立った時, ロクスマウェへ行く方法を訪ねたところアルンLNGの関係者かと問われた。

この町はLNG基地がある事で有名なそうだ。

 

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正午に出発して東進していくのだが, 道沿いにはほぼ絶える事無く, 小さな集落が目に付く

なんとなくスマトラ島は秘境なイメージがありジャングルが広がっているのかと思っていただけに意外な光景であった。

 

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途中休憩のガソリンスタンドにて。

アチェ州ではアチェ民族帽子をかぶっている男の子を沢山みかける。

途中で工事で土の区間もあったが, 基本的に道中はすべてアスファルト舗装されていた。

 

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途中バナナチップを購入。150円ほどしてインドネシアにしては結構高いなと思っていたら食べきれないほど大量にもらってしまった。

 

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クレイジーなあおり高速走行で結局ロクスマウェに着いたのは日没の6時半頃。

適当にドライバーの知っているホテルで降ろして貰った。

チェックインしてから10,000ルピアのベチャで街のバスターミナルへ行く。

この街にはタクシーがないらしく移動手段はサイドカー付きバイクであるベチャしかない。

明日メダンに行くためのバスケットを購入しておく。出発は9時だ。

 

それから80円のサティを食べたり, 50円のコーヒーを飲んだりして街中をブラブラしていると街のモスク横にある広場では遊具と遊んでいる子供達が沢山。

 

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ミニチュアな釣りや回転木馬, ゴーカート, お絵描き, 果てはエレクトリカルパレードのような乗り物まで登場してテーマパーク状態となっている。

 

アチェ州では確か子供が外で遊んで良い門限のような時刻が9時ぐらいで決まっていた気がするが, ギリギリまでは遊んでいるようだ。


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ホテルへ戻る途中に市場のような場所があったので入ってみると, 地元の人たちに話しかけられて仲良くなった。

聞くとここは明るい時間帯は宝石市場なのだとか。

アチェ州には宝石の採れる場所が結構あり, 彼らも売り買いをする商売人だそうだ。

 

今晩深夜から宝石が採れる内陸のタケゴンへ移動する予定だとの事。

タケゴンは風光明媚な場所であまり知られていない山岳リゾートらしく明日ブラスタギまで行こうかなと言ったらタケゴンへ行くのを強くお勧めされた。

時間的制約もあり行くのは適わなかったが, 気になる街だ。

 

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まだ時間もあったので一緒にカフェへ行く。

深夜にも関わらず多くの男達がくつろいでいる。

支払いは彼らに奢ってもらってしまった。

珈琲をおごってもらってしまった上に商品サンプルとして使っている指輪まで貰ってしまった。旅の経験上最後に見返りを要求されるパターンも頭に浮かんでしまったが結局そんなものは求められずじまい、本当にいい人だった。

 

しかもこんな場所に来る日本人は珍しいのか, 勝手にインスタライブまで始まってしまっている。

LNG基地に来る外国人はいないのかと尋ねるのだが, 

彼らは街には出てこないのだそうだ。

彼らの一人は土木測量技術者をやっていたため油ガス田構造調査に用いる物理探査の仕事を一時期していたようだ。

スマトラ地震後には日本の大学教授と被害調査や復興の取り組みもしたそうだ。

 

しかし, それは特異な例のようでガス田開発のためにアメリカ企業が雇う従業員は地元の人間は多くなくジャワ島から連れて来た人ばかりなのだとか。

 

なんとなくもやもやした気持ちになるのだが, 嬉しい発見もあった。

 

後からやってきた彼らの友達が職業軍人だったのだが, 彼はジャワの人間であった。

アチェ州は津波が来るまで長く独立戦争をしていた。

特にロクスマウェ北スマトラ州に近い街であるためインドネシア軍の基地が置かれて, その前線でもあったのだ。

 

この戦争には日本人も無関係ではない。インドネシア独立戦争に多数の残留日本兵が加わったのはよく知られているが, アチェ州のインドネシアからの独立戦争にも初期に協力していた日本兵がいるからだ。

 

そして近年まで独立戦争は続くのだが, スマトラ津波を機に独立勢力は戦争を辞め, 地域の復興では存在感を見せたインドネシア政府の力がアチェの住民に認められた。

 

和平が結ばれ平和の時代が訪れるのだが, そうした悲しみの歴史を経て, こうして中央政府のあるジャワ島出身の軍人アチェ州の住民日本人一つのテーブルを囲んでお茶しているという事実には歴史を考えれば大変感慨深いものがあると感じた。

 

少なくともインドネシアがこれまでの悲惨な歴史を乗り越えて未来へしっかりと前へ歩んでいる事を確かめられたのはこの旅での大きな収穫であった。

 

 

snowm-blog.hatenablog.com

【大津波に襲われたアチェの街】インドネシア横断旅:前編その一:有名ガイドの案内で日本人に会いに行く

 

snowm-blog.hatenablog.com

 

バンダアチェイスカンダルムダ空港に降り立った。

ここがインドネシア横断旅のスタート地点となる街だ。

 

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旅の計画をざっくり言うと, ここからバスでスマトラ島を縦横断して,

船でジャワ島へ渡り更にバリ島, ロンボク島, コモド島, フローレス島, チモール島へと東へ東へアイランドホッピングしていく計画であった。

 

ただ結論から言えば当初予定の四分の一ぐらいしか進められずジャカルタ止まりとなった。

その理由はスマトラ島があまりにも大きくて日数が足りなかったからだ。

まぁ元々一回でインドネシアを横断するのは無理があるとは気づいていたから, また次回訪れた際に続きをやりたいと思う。

 

とにかくインドネシアの西端バンダアチェから今回の東進していく旅は始まったのである。

  

空港へ降り立つと出口には沢山のタクシードライバーが, 待ち構えていた。インドネシアではよくある光景だ。とはいえ空港の規模が小さいからか, 殺伐とした雰囲気はない

それでもすぐには信用せず先ずはグラブ(配車アプリ)で適正料金を調べる。

 

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空港のベンチに座って調べるとドライバーに見せられた料金表はほぼ適正価格であることを確認できた。

バンダアチェ市内までは100,000RP(770円)だ。

料金表を見せてきた人の車に乗り市内まで向かって貰うこととする。

 

途中でアチェ州第二の都市ロクスマウェまで行きたいんだけど, どうやって行けるのかと尋ねると

 

日本語できる友達いるからちょっと待っててといわれてしばらくまつと電話を渡された。電話に出ると相手は流暢な日本語を喋るじゃないか。

 

インドネシアには戦時中に来てそのまま残った人も多いと聞いていたのでもしかして残留日本兵と疑問がよぎりつつも, よくよく話を聴くと日本語ができるインドネシア人であった。

 

彼には色々聞きたかったため, とりあえず向かっているホテルにて待ち合わせする事にして市内へ向かう。

 

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この街を訪れたのはクリスマス直後だったが, クリスマスの雰囲気は微塵もない

聞くと晦日や新年のお祝いすらしないという。

 

一時間弱ぐらい走っただろうかホテルに到着した。一泊4000円ぐらいだったと思うが立派なホテルだった。

後で聞いたところ, この街では高級なホテルの部類に入るようだ。

部屋もロビーも広くて申し分ない。外国人はほとんどいないのか, ムスリムの格好をした人ばかりであった。

  

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受付で貰った市内マップで観光スポットをチェックする。

今回訪れることは無かったが郊外の方を見ると日本軍上陸モニュメントというのもあるそうだ。

アチェインドネシアを統治したオランダへの抗争が最も激しかった地域である。

そのため独立勢力が上陸の手引きをしていたそうだ。

(とはいえその後は泥沼の戦争がつい最近まで続く事になる)

 

ロビーで先ほど電話で話したガイドと待ち合わせる。仕事用の英語名はLittle Johnというそうだ。

何とWikitravelにも掲載されているこの町の名物ガイドだそうだ。ベチャにはWi-Fiを備え付けており, 英語ドイツ語も話せるというハイスペック人材である。

言語はメダンのインターナショナルスクールで習ったのだそうだ。

 

一時間ぐらいで100,000RP(770円)の約束で適当に彼のベチャで街を回って貰う事にした。

 

wikitravel.org

 

先ず最初に向かったのは洗濯屋だった。ホテルのラウンドリーは価格が非常に高いので街中の庶民が使うところへ行って貰う。 特急扱いで値段は300円ほどだった。

それから次に向かったのはスマトラ津波の遺構であった。

 

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 日本の津波でもしばしば目にした建物上に漁船が乗っかってしまった遺構である。

この街では後世に伝えていくためにこういった津波の記憶を遺すことにしたそうだ。立派な決断であると思う。

入場料は特になかったものの, 募金箱に500円ほどの少額だが寄付させて貰った。

 

その次は港へ行ってみる事にする。 

 

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上のように小学生ぐらいの女の子がスカーフをした状態でバイクの後ろに乗っている可愛らしい姿をよく目にする。子供×スカーフ×バイクという何故か凄く印象に残るライフスタイルであった。 

 

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海が見える道沿いにはとうもろこし屋台が沢山あって夕日を見ている人が沢山いた。とうもろこしを食べながら日没を眺めるのが地元で流行っているんだとか。

 

またフェリーターミナルでは周辺の島へ行くための船が出ているそうだ。

特にサバン島はダイビングスポットとして人気があるそうで現地在住の日本人女性もダイビングショップで働いているのだそうだ。

 

地元の人達の暮らしが気になって家を見せて貰えないかと頼むと友達の家へ連れて行ってくれる事になった。

しばらく走って閑静な住宅街の路地へ入ると, そこには親子3人で暮らす小ぶりな友人宅に入れて貰った。

 

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ブラウン管TVを久しぶりに見た。長く使っているそうで, 最近は薄型の方が安いそうだ。

棚の上には結婚式の写真が沢山飾ってあった。

 

電気は引いているが, 水は整備されておらず井戸と飲料用には飲料水を買っているそうだ。

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隣の小屋にはパン工房があった。

彼はガイドと同様にベチャのドライバーなのだが, それだけではやっていけず副業として毎朝パンを焼いて, カフェの隣に屋台を出して売るそうだ。

 

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上の機械はスマトラ津波の時に遠くまで流されたそうだ。そして下の機械のように見付けられなかったものは新しく購入したので一つだけピカピカだ。

使っている機械は6万5千円や8万円ほどするそうで, インドネシアの平均年収を考えると相当大きな経済的負担であった事が分かる。

 

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この後, バスターミナルへ行って貰い, アチェ州第二の都市であるロクスマウェ行きのチケットを購入した。値段は1000円弱である。

といっても大型バスターミナルは別にあるそうでワゴンタイプのバスターミナルのようだ。駐車場の周りには沢山のバス会社がチケットオフィスを構えている。

 

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上のPT. PUSAKAという会社でチケットを購入した。バスは一時間おきに出ているそうだが, 翌日の予定を考えて, 正午にホテルのロビーまで迎えに来て貰う事にした。

どうやら日本人がここに来るのはやはり珍しいそうだ。

 

お腹が空いたのでローカルレストランでミーゴレンを食す。

アチェのミーゴレン(焼きそば)はミーアチェとも呼ばれ他の地域とは異なるそうだ。特に太い麺と辛い味付けが特徴だそうで, 麺がモチモチしていて美味しかった。

二人分の食事と飲み物代で220円程度。さすがの安さ。

 

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食後に向かいのカフェでコーヒーを購入。ここは外国人も買いに来る事のある有名店だそうだ。特に有名なコピ・ルアクが100円くらいで飲む事ができる。

コピ・ルアクは日本だと数千円もするような世界一高いコーヒーと言われている。

日本はもちろんの事, ジャカルタバリで飲んでも高価で貴重な珈琲だが, ここでは恐ろしく安い。

 

でもガイドはジャコウネコの糞から出来たコーヒーだが俺は飲まないんだそうだ。

お土産を持って帰りたかったが, 旅を始めたばかりのタイミングで荷物を増やしたくなかったので断念。

 

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この後ガイドの友達である現地在住日本人の家を訪問した。

 

彼は元々プーケットで漁業を営んでいたそうだが, スマトラ地震プーケットが甚大な被害を受けた後にスマトラ島へ来たそうだ。アチェに来た当初はインドネシア海軍の基地に漁船を停泊させてもらっていたのだとか。

 

ここでは日本人が三人ほどいてもう一人も漁業関係で来ていて, もう一人は欧米人と結婚してサバン島のダイビングショップを夫婦で経営しているのだとか。

また付近のサバン島へ行った時の話を聞いたのだが, 住人に渡された島の地図には日本語がしるされていたそうだ。

戦争中に日本軍が製図した地図が非常に精巧でそれが今でも使いまわされているのだとか。

また島には日本人の墓もあるそうた。明治の頃より日本人が来ていたそうだ。

マラッカ海峡の入り口にあたる要衝なので日本人の漁師達なのだろうか。。

 

彼が訪れた時にはもちろん草木に埋もれた状態だったそうなのだが、地元住民にお金(当時初めてきたばかりの頃で相場がよく分からず数万円渡したところ)を渡して一日にして完璧に奇麗に掃除がなされたのだとか。

 

ところでアチェ美人が多いそうだ。 

確かにこの街では東アジア系の顔立ちの人は多くないように思え, メダンとは違うなと思っていたところだ。

聞くと, ここではヨーロッパ・インド系の顔立ちの人も多いという。

 

碧眼の人もたまにいて田舎の村ではその遺伝子が途切れないよう皆で守る風習があるとも聞いた。

その時はへーそんなこともあるのかと他人事のように聞いていたが, 翌朝ホテルのレセプションでチェックアウトするときに気づいた。

目の前のホテルスタッフの女性が碧眼だったのだ。

 

灯台下暮らしというのだろうか。まさかこんな身近にいるとは思わず驚いた。

この人のように青目でなくともバンダアチェの人達はどこか他の地域のインドネシア人とは顔立ちが異なる気がする。

やはりマラッカ海峡の入り口にあたる要衝のため海洋貿易の時代に欧州系の血が結構入っているのだろうか

 

他にも日本のTV局から取材の依頼がしつこいとかそんな話をしていて時間が過ぎてしまい日本人と別れたのは日が変わろうかという時間帯。お礼を言ってからホテルへ戻り, 最後に200,000RPと安物ではあるが, この日が誕生日だったドライバーに身に付けていた腕時計をプレゼントして再開を約束し寝床に着いた。

  

snowm-blog.hatenablog.com

【ヤンゴンのスラム街ダラを訪問】ビルマ縦断その6:日本の船に乗りスラムへ

お昼過ぎに陽の光で目を覚ました。

ヤンゴンの街中へ

ヤンゴンのホテルは地方とは違い, どこも値段の高いところばかりであり, 自分の泊まったホテルはヤンゴンの中では格安に近い料金だったので, どんな場所か心配もしていた。しかし, 思っていたものより, よほど立派な宿泊場所であった。

部屋はきちんと掃除が行き届いており, 水回りも綺麗にされていた。広さも十分で廊下やロビーは厳かな雰囲気もあって, 大満足であった。

そのホテルはダウンタウンの中でも北端のヤンゴン中央駅近くにあったので, 少し外をブラブラ歩いてみる事にした。特に目指す所もなかったので, 街のシンボルでもあるスーレーパゴダに向かっていくこととした。

道中はこの国最大の街のダウンタウンらしく, 今までミャンマーで見た事ないほどの人が行きかっており, 人々の話し声で騒がしかった。以前に見たタチレクの国境のようでもあったが, 異なるのは街そのものの発展度である。7階建てぐらいの建物が見渡す限りそびえており, それぞれの部屋は幅が狭く, 通りに灯りが十分にないためスラムのような雰囲気もある。しかし, 危ない雰囲気は一切なく, 頻繁に見かけた映画館があり, この国での娯楽施設としては映画館が人気があるのかなと思ったものだ。

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またこの国でもタイと同じように宝くじが人気あるのか, 宝くじ商店もしばしば見かけた。

 

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スーレーパゴダ一つ手前の交差点では自動車交通量が多すぎて, 徒歩では渡る事ができない代わりに, 立派な歩道橋が架かっていた。上ると渡る人も多いのだが, 何をしているのか, ただ立っているだけの人も多くいた。また他の街ではあまり見かけなかった物乞いもちらほらいたのだ。

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国内最大であり, イギリス統治時代に発展した港街というだけあって, 外国人というだけで特別扱いされる訳でもないのは流石ヤンゴンといったところだ。

スーレーパゴダの写真を外から撮って, 広場に行くと物売りが何人かいた。そういえば朝から何も食べていない事を思い出し, うずらの卵を買って食べた。この国ではうずらの卵やそれをたこ焼きのようなもので揚げたものが人気なのか売られている光景をよく見かけた。

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上手く殻を剥くことができず, 時間をかけて食べていると, 一人の女が話しかけてくる。私が川の対岸にあるダラという町を案内するよとの事。このダラという場所は最貧困地区として知られ, 自分も今回の旅で行こうと思っていたところの一つであったため, 話を聞いてみる事とする。

記念碑の近くに並んで座り, 話を聞くと彼女はダラに住んでいる学生であり, いつも船で川を渡り, バスで学校に通学しているとの事。

船賃は現地の人でも有料なのだが, 日本人が寄贈した船と整備した埠頭で運航されているため, 日本人は無料であるとの事。対岸ではトゥクトゥクをチャーターして, Bamboo VillageやRice field, Snake Pagoda, 陶器の町なのがあると言う。

だが, ここで心配なのはお金の面である。ガイド料はとらないというのだが, ネットで調べるとトゥクトゥク料金を巡ってトラブルが続発しているようだった。また外務省の海安全渡航情報でも警告が出ていた。

彼女が言うには旅行者が直接交渉すると外国人相手にトラブルが発生するが, 地元の私がいれば大丈夫との事だったが, どこまで信用してよいのか不明だったために, とりあえず今日はやめて, 明日にすると伝え別れた。

そして, トゥクトゥクを使わなければ, 船賃も無料だし, 渡るだけ渡って歩いてプラプラして良ければ, また明日来ようと思い, 埠頭に向かう事とした。

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ダラ行きフェリーに向かう歩道橋や埠頭では対岸住民の人々が激しく行き交っていた。彼らの流れに沿って, お金を払うところで日本のパスポートを見せると, あっちの窓口へ行けと言われたので, 行ってみると名前の記帳を求められたので記入する。どうやら外国人はそうしないといけないようだ。またガイドは必要かと問われたが, 今日はブラブラ歩くだけと答えたら, それ以上は何も言われず通し

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て貰えた。

 

 

待合室は来た時は船が出たばかりだったからかガラガラ

 

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であったが, 5分も待っているとすぐに一杯になった。次の船が着岸してゲートが開くと, 乗船者が一斉に乗り込む。

自分は写真を沢山撮りたかったので, 2階の端に陣取る。出航してからヤンゴン川の景色を必死にとっていると, 隣の人が日本人かと日本語で話しかけてきた。

 

どうして日本語が話せるのだと尋ねると, 友達が日本大使館で働いているとの事だった。何で船に乗っているのか, 仕事は何しているのかと聞くと, 普段は向こう岸でシクロドライバーをやっており, 子供の送り迎えでヤンゴンに来ていた帰りであるとの事だった。

本当は今日乗り物に乗るつもりは全くなかったのだが, 落ち着いた語り口調で自分から営業かけてこない姿勢に好感を覚え, 自分から家を訪問させて貰えないかとお願いした。1時間9,000kyatsでどうだと言ってきたので, 相場はよくわからなかったが, さっき広場で話したインド系の女は2,000kyatsぐらいじゃないかと言っていたから, 安いもんかと思い, 8,000kyatsにだけまけてもらい合意した。

日本とミャンマーの国旗マークが記された向こう岸に着くと, 沢山のドライバーから声を掛けてきたが, 彼らを無視して先ほどのドライバーのシクロに乗る。彼自身はビルマ人のようだが, ここのドライバーはムスリムが多いそうだ。

 

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自転車のサイドカーに乗って, 10分程走ると彼の自宅に到着した。ここまでの道中話に聞いていた通り, この国のどこで見たものとは明らかに異なる圧倒的な貧困地帯が広がっていた。家はボロボロだし, 狭いところに沢山の人が肩を寄せ合って暮らしているようであった。細い道端には狂犬病を心配してしまうような野良犬が沢山寝ていた。とはいえ, ドライバー達は住民一人一人を見知っているようで, 声をかけあっており, その見かけとは裏腹に悲壮的な雰囲気は全く感じられなかったのも印象的であった。

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彼の家で椅子に座らしてもらい, よくよく話を聞くと家は海外によくある違法建築かと思いきや, ちゃんと家賃があり, 払って生活しているという。飲料水は井戸水の水質が悪いため飲むことができず, 雨季は雨水を, 乾季はヤンゴンから飲料水を購入しなければならず家計を圧迫する原因となっているとの事であった。

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またダラでたまに見かけた水田はここの住人のものではなく, 持ち主はヤンゴンに住んでいるという話であった。結局住人の数に対してまともな仕事が不足しているのが, この町の問題点になっているようだ。

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彼らの話を聞いていると, 最も深刻なのは医療関係のように思われた。ダラにも病院があるようで無料で利用できるようだが, 信用されていないそうだ。

彼の祖母も病気で視力を失ったそうで, 子供も早生まれで病院通いだそうなのだが, 高額ではあるものの, ヤンゴンの病院に行っているそうだ。1万円近くかかるそうで月収が非常に低い彼らにはとてつもなく大きな負担である事が察せられた。

この後, 時間がまだ余っていたので, 津波で大きな被害を受けた村へ寄ったのだが, この村はダラの中でも更に貧困が酷い場所であり, 子供達の多くがサンダルを履いておらず裸足で道を歩いていた。

 

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一通り村を見て回った後, 近くの米屋で自分も米を購入して寄付させてもらった。ダラに住むドライバー自身も年に一度子供達のためにサンダルを寄付しているそうだ。貧しい者同士でも助け合いながら生きていこうとする姿勢にはなんとなく昔の日本のイメージとも重なり, 今の日本人も見習わなければならないところも多々あると感じられた。

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結局埠頭に戻る事には1時間過ぎていたのだが, 寄付をして, もう10,000kyatsしか残っていないから足りないなら歩いて帰るよと伝えたのだが, お前は自分の家を見てくれたんだ, お金の事は気にしなくて良いから, との男前発言。

ここで遠慮しては男が廃るなと思い, 遠慮なく乗せてもらって, スコールが降り注ぐ中埠頭まで走った。結局着いた頃には1時間半ぐらい経っていたと思うが, 10,000kyats支払って, 彼らと記念撮影を沢山とった。残念ながら彼らはfacebookなどをやっておらず写真は渡せなかった。

到着した頃にはずぶ濡れだったのだが, 不思議とそんな事も全く嫌な気がせず, ほっこりとした気持ちでヤンゴンに戻っていったのであった。印章に残ったのは彼ら自身が貧しい生活をしているにも関わらず, より貧しい住民を助けながら, 声を掛け合い生きていく姿であったと思う。この旅の中でも忘れられない経験であった。

日本としても大型フェリーを寄付するなど歴史的に協力してきた経緯もあり, 今後発展していくミャンマーに取り残されないよう引き続き支援していって欲しいと思っている。

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