お昼過ぎに陽の光で目を覚ました。
ヤンゴンの街中へ
ヤンゴンのホテルは地方とは違い, どこも値段の高いところばかりであり, 自分の泊まったホテルはヤンゴンの中では格安に近い料金だったので, どんな場所か心配もしていた。しかし, 思っていたものより, よほど立派な宿泊場所であった。
部屋はきちんと掃除が行き届いており, 水回りも綺麗にされていた。広さも十分で廊下やロビーは厳かな雰囲気もあって, 大満足であった。
そのホテルはダウンタウンの中でも北端のヤンゴン中央駅近くにあったので, 少し外をブラブラ歩いてみる事にした。特に目指す所もなかったので, 街のシンボルでもあるスーレーパゴダに向かっていくこととした。
道中はこの国最大の街のダウンタウンらしく, 今までミャンマーで見た事ないほどの人が行きかっており, 人々の話し声で騒がしかった。以前に見たタチレクの国境のようでもあったが, 異なるのは街そのものの発展度である。7階建てぐらいの建物が見渡す限りそびえており, それぞれの部屋は幅が狭く, 通りに灯りが十分にないためスラムのような雰囲気もある。しかし, 危ない雰囲気は一切なく, 頻繁に見かけた映画館があり, この国での娯楽施設としては映画館が人気があるのかなと思ったものだ。
またこの国でもタイと同じように宝くじが人気あるのか, 宝くじ商店もしばしば見かけた。
スーレーパゴダ一つ手前の交差点では自動車交通量が多すぎて, 徒歩では渡る事ができない代わりに, 立派な歩道橋が架かっていた。上ると渡る人も多いのだが, 何をしているのか, ただ立っているだけの人も多くいた。また他の街ではあまり見かけなかった物乞いもちらほらいたのだ。
国内最大であり, イギリス統治時代に発展した港街というだけあって, 外国人というだけで特別扱いされる訳でもないのは流石ヤンゴンといったところだ。
スーレーパゴダの写真を外から撮って, 広場に行くと物売りが何人かいた。そういえば朝から何も食べていない事を思い出し, うずらの卵を買って食べた。この国ではうずらの卵やそれをたこ焼きのようなもので揚げたものが人気なのか売られている光景をよく見かけた。
上手く殻を剥くことができず, 時間をかけて食べていると, 一人の女が話しかけてくる。私が川の対岸にあるダラという町を案内するよとの事。このダラという場所は最貧困地区として知られ, 自分も今回の旅で行こうと思っていたところの一つであったため, 話を聞いてみる事とする。
記念碑の近くに並んで座り, 話を聞くと彼女はダラに住んでいる学生であり, いつも船で川を渡り, バスで学校に通学しているとの事。
船賃は現地の人でも有料なのだが, 日本人が寄贈した船と整備した埠頭で運航されているため, 日本人は無料であるとの事。対岸ではトゥクトゥクをチャーターして, Bamboo VillageやRice field, Snake Pagoda, 陶器の町なのがあると言う。
だが, ここで心配なのはお金の面である。ガイド料はとらないというのだが, ネットで調べるとトゥクトゥク料金を巡ってトラブルが続発しているようだった。また外務省の海安全渡航情報でも警告が出ていた。
彼女が言うには旅行者が直接交渉すると外国人相手にトラブルが発生するが, 地元の私がいれば大丈夫との事だったが, どこまで信用してよいのか不明だったために, とりあえず今日はやめて, 明日にすると伝え別れた。
そして, トゥクトゥクを使わなければ, 船賃も無料だし, 渡るだけ渡って歩いてプラプラして良ければ, また明日来ようと思い, 埠頭に向かう事とした。
ダラ行きフェリーに向かう歩道橋や埠頭では対岸住民の人々が激しく行き交っていた。彼らの流れに沿って, お金を払うところで日本のパスポートを見せると, あっちの窓口へ行けと言われたので, 行ってみると名前の記帳を求められたので記入する。どうやら外国人はそうしないといけないようだ。またガイドは必要かと問われたが, 今日はブラブラ歩くだけと答えたら, それ以上は何も言われず通し
て貰えた。
待合室は来た時は船が出たばかりだったからかガラガラ
であったが, 5分も待っているとすぐに一杯になった。次の船が着岸してゲートが開くと, 乗船者が一斉に乗り込む。
自分は写真を沢山撮りたかったので, 2階の端に陣取る。出航してからヤンゴン川の景色を必死にとっていると, 隣の人が日本人かと日本語で話しかけてきた。
どうして日本語が話せるのだと尋ねると, 友達が日本大使館で働いているとの事だった。何で船に乗っているのか, 仕事は何しているのかと聞くと, 普段は向こう岸でシクロドライバーをやっており, 子供の送り迎えでヤンゴンに来ていた帰りであるとの事だった。
本当は今日乗り物に乗るつもりは全くなかったのだが, 落ち着いた語り口調で自分から営業かけてこない姿勢に好感を覚え, 自分から家を訪問させて貰えないかとお願いした。1時間9,000kyatsでどうだと言ってきたので, 相場はよくわからなかったが, さっき広場で話したインド系の女は2,000kyatsぐらいじゃないかと言っていたから, 安いもんかと思い, 8,000kyatsにだけまけてもらい合意した。
日本とミャンマーの国旗マークが記された向こう岸に着くと, 沢山のドライバーから声を掛けてきたが, 彼らを無視して先ほどのドライバーのシクロに乗る。彼自身はビルマ人のようだが, ここのドライバーはムスリムが多いそうだ。
自転車のサイドカーに乗って, 10分程走ると彼の自宅に到着した。ここまでの道中話に聞いていた通り, この国のどこで見たものとは明らかに異なる圧倒的な貧困地帯が広がっていた。家はボロボロだし, 狭いところに沢山の人が肩を寄せ合って暮らしているようであった。細い道端には狂犬病を心配してしまうような野良犬が沢山寝ていた。とはいえ, ドライバー達は住民一人一人を見知っているようで, 声をかけあっており, その見かけとは裏腹に悲壮的な雰囲気は全く感じられなかったのも印象的であった。
彼の家で椅子に座らしてもらい, よくよく話を聞くと家は海外によくある違法建築かと思いきや, ちゃんと家賃があり, 払って生活しているという。飲料水は井戸水の水質が悪いため飲むことができず, 雨季は雨水を, 乾季はヤンゴンから飲料水を購入しなければならず家計を圧迫する原因となっているとの事であった。
またダラでたまに見かけた水田はここの住人のものではなく, 持ち主はヤンゴンに住んでいるという話であった。結局住人の数に対してまともな仕事が不足しているのが, この町の問題点になっているようだ。
彼らの話を聞いていると, 最も深刻なのは医療関係のように思われた。ダラにも病院があるようで無料で利用できるようだが, 信用されていないそうだ。
彼の祖母も病気で視力を失ったそうで, 子供も早生まれで病院通いだそうなのだが, 高額ではあるものの, ヤンゴンの病院に行っているそうだ。1万円近くかかるそうで月収が非常に低い彼らにはとてつもなく大きな負担である事が察せられた。
この後, 時間がまだ余っていたので, 津波で大きな被害を受けた村へ寄ったのだが, この村はダラの中でも更に貧困が酷い場所であり, 子供達の多くがサンダルを履いておらず裸足で道を歩いていた。
一通り村を見て回った後, 近くの米屋で自分も米を購入して寄付させてもらった。ダラに住むドライバー自身も年に一度子供達のためにサンダルを寄付しているそうだ。貧しい者同士でも助け合いながら生きていこうとする姿勢にはなんとなく昔の日本のイメージとも重なり, 今の日本人も見習わなければならないところも多々あると感じられた。
結局埠頭に戻る事には1時間過ぎていたのだが, 寄付をして, もう10,000kyatsしか残っていないから足りないなら歩いて帰るよと伝えたのだが, お前は自分の家を見てくれたんだ, お金の事は気にしなくて良いから, との男前発言。
ここで遠慮しては男が廃るなと思い, 遠慮なく乗せてもらって, スコールが降り注ぐ中埠頭まで走った。結局着いた頃には1時間半ぐらい経っていたと思うが, 10,000kyats支払って, 彼らと記念撮影を沢山とった。残念ながら彼らはfacebookなどをやっておらず写真は渡せなかった。
到着した頃にはずぶ濡れだったのだが, 不思議とそんな事も全く嫌な気がせず, ほっこりとした気持ちでヤンゴンに戻っていったのであった。印章に残ったのは彼ら自身が貧しい生活をしているにも関わらず, より貧しい住民を助けながら, 声を掛け合い生きていく姿であったと思う。この旅の中でも忘れられない経験であった。
日本としても大型フェリーを寄付するなど歴史的に協力してきた経緯もあり, 今後発展していくミャンマーに取り残されないよう引き続き支援していって欲しいと思っている。