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【世界旅ブログ】アジアの辺境・奥地へ

【メッカのベランダ】インドネシア横断旅:前編その二:アチェで考える津波と戦争と平和


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翌朝はホテル(何故か大量のぬいぐるみが販売されている・・・)のバイキングで朝飯を済ませて, 津波博物館に向かう。

ここは英語名だとTsunami Museumである。

 

グラブで頼むと女性ドライバーだった。イスラムの戒律が厳しいこの地域だが, 女性が働くことには寛容のようだ。知り合ったガイドの娘も大学に行っていると言っていたし, 女性の権利が制限されている雰囲気は感じられない。

 

とはいえアチェ州では公衆の面前での愛情表現が禁止されるなど, 保守的なので気を付けなければならない。

最近もこんなニュースがあった。

www.newsweekjapan.jp

 

タクシー車内はピンク色を基調としておりハローキティグッズに溢れているのが, 日本の田舎で軽自動車を持つ若い女性のイメージと似ていて面白い。

タクシーはUberで100円程度だった。

 

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津波博物館はスマトラ沖地震の様々な展示がされていて, 地元の人もたくさん訪問していた。

早速チケットを購入して中に入る。料金は77円ぐらい。

 

外国人は受付で国籍を記入しなければならない。

聞くと日本人もちょいちょい来ており数日前には展示会で沢山来ていたそうだ。

 

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館内には津波の事を思い出したくない人や体の弱い人は入館しないように注意書きがされていた。

 

※ここから先は津波関連の写真が沢山でてくるので抵抗がある方はご遠慮下さい。

 

 

 

 

 

 

被災したヘリコプターの展示を横目に館内へ入っていくと, 水の流れていく音が聞こえる真っ暗な通路をしばらく歩く。

 

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足元が見えないほど暗いため結構ドキドキなのだが,

通路を抜けると一人一人の犠牲者の名前が壁に書かれた部屋にたどり着く。

写真では分かりにくいが, 四方の高い壁全面に小さく名前が書かれているのだ。

 

死者数は報道等で分かってはいるのだが, このように個人名が並ぶと一人一人に自分と同じようにそれぞれの人生を抱えていた者達が如何に多く亡くなった事か, どこか他人事のように聞こえていた話が急に身近で起こったものとして感じられた。

 

震災は悲しみの記憶であるが, 一方で世界各国から救援チームが駆けつけて活動が行われた。そういった面を記憶していくための絵画も展示されていた。

 

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震災時にはオールドテクノロジーが役立つ。

日本でも東日本大震災後に機能しなくなった東北本線の代わりとして石油を積んだ古いディーゼル機関車磐越西線を走ったし, 携帯も機能しないような災害時に便利なラジオの力が改めて認識された。

 

ここでは象の力が瓦礫撤去(人力ならぬ象力?)などに役立てられたようだ。

 

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津波に飲み込まれる街の模型展示も。

 

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上の階には薄暗い照明の中で津波にあった家屋の様子が再現されていた。

また短冊のように沢山のメッセージを記載したものが吊り下げられたコーナーもあった。中には日本語のメッセージも散見された。

 

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そして日本コーナーもあった。東日本大震災の写真も展示されている。

 

浜口梧陵という人の特集展示がされていた。

彼は幕末の和歌山で津波安政南海地震)があった際に到着前の避難や被災後の復興に尽力した人で,

国連が定める津波の日の元ネタになった人物でもある。

 

彼の活躍は稲むらの火として戦前では国語の授業の教材であった。

www.yamasa.com

 

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博物館の吹き抜けの天井には救援活動に尽力したのであろう各国の国旗が。

博物館の外は子供達の遊び場と化している。

この博物館の素晴らしいのは記憶を展示するのみならず, 災害時には避難所としての機能を有していることだ。

 

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博物館は一時間半ほどで見学を終えて, 二ブロックほど先にあるグランドモスクへ移動。

インドネシアではこのように道路に穴が開いているため, 下を見ながら歩かなければならない。

 

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グランドモスクは流石に圧巻だ。

東南アジア一のモスクとの呼び声も伊達ではない。

入場には靴を脱いで預ける必要がある。

 

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市民の憩いの場としての役割もあるのか, 何をするでもなく皆思い思いに過ごしている。

中には結婚式の写真や動画を撮影している人たちも。

津波の時は何百人もの人達がここに避難したそうだ。

 

宗教施設でもありながら地域の集会所としての役割もあるみたいで, 観光用というよりも地域に根付いた施設となっている。


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この後はまた100円のUberでホテルへ一旦戻ってチェックアウトを済まし、前日に購入したバスチケットでアチェ州第二の街であるロクスマウェを目指す。

バンに乗せられて一旦バスターミナルへと移動して、そこで乗客が全員載せられて出発する。この際に再度チケット代をしつこく要求されたのだが前日に支払い済みだと何度か主張したらことなきを得た。前日に払ったバス移動費は120,000ルピア。 

 

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バンダアチェの空港に降り立った時, ロクスマウェへ行く方法を訪ねたところアルンLNGの関係者かと問われた。

この町はLNG基地がある事で有名なそうだ。

 

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正午に出発して東進していくのだが, 道沿いにはほぼ絶える事無く, 小さな集落が目に付く

なんとなくスマトラ島は秘境なイメージがありジャングルが広がっているのかと思っていただけに意外な光景であった。

 

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途中休憩のガソリンスタンドにて。

アチェ州ではアチェ民族帽子をかぶっている男の子を沢山みかける。

途中で工事で土の区間もあったが, 基本的に道中はすべてアスファルト舗装されていた。

 

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途中バナナチップを購入。150円ほどしてインドネシアにしては結構高いなと思っていたら食べきれないほど大量にもらってしまった。

 

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クレイジーなあおり高速走行で結局ロクスマウェに着いたのは日没の6時半頃。

適当にドライバーの知っているホテルで降ろして貰った。

チェックインしてから10,000ルピアのベチャで街のバスターミナルへ行く。

この街にはタクシーがないらしく移動手段はサイドカー付きバイクであるベチャしかない。

明日メダンに行くためのバスケットを購入しておく。出発は9時だ。

 

それから80円のサティを食べたり, 50円のコーヒーを飲んだりして街中をブラブラしていると街のモスク横にある広場では遊具と遊んでいる子供達が沢山。

 

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ミニチュアな釣りや回転木馬, ゴーカート, お絵描き, 果てはエレクトリカルパレードのような乗り物まで登場してテーマパーク状態となっている。

 

アチェ州では確か子供が外で遊んで良い門限のような時刻が9時ぐらいで決まっていた気がするが, ギリギリまでは遊んでいるようだ。


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ホテルへ戻る途中に市場のような場所があったので入ってみると, 地元の人たちに話しかけられて仲良くなった。

聞くとここは明るい時間帯は宝石市場なのだとか。

アチェ州には宝石の採れる場所が結構あり, 彼らも売り買いをする商売人だそうだ。

 

今晩深夜から宝石が採れる内陸のタケゴンへ移動する予定だとの事。

タケゴンは風光明媚な場所であまり知られていない山岳リゾートらしく明日ブラスタギまで行こうかなと言ったらタケゴンへ行くのを強くお勧めされた。

時間的制約もあり行くのは適わなかったが, 気になる街だ。

 

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まだ時間もあったので一緒にカフェへ行く。

深夜にも関わらず多くの男達がくつろいでいる。

支払いは彼らに奢ってもらってしまった。

珈琲をおごってもらってしまった上に商品サンプルとして使っている指輪まで貰ってしまった。旅の経験上最後に見返りを要求されるパターンも頭に浮かんでしまったが結局そんなものは求められずじまい、本当にいい人だった。

 

しかもこんな場所に来る日本人は珍しいのか, 勝手にインスタライブまで始まってしまっている。

LNG基地に来る外国人はいないのかと尋ねるのだが, 

彼らは街には出てこないのだそうだ。

彼らの一人は土木測量技術者をやっていたため油ガス田構造調査に用いる物理探査の仕事を一時期していたようだ。

スマトラ地震後には日本の大学教授と被害調査や復興の取り組みもしたそうだ。

 

しかし, それは特異な例のようでガス田開発のためにアメリカ企業が雇う従業員は地元の人間は多くなくジャワ島から連れて来た人ばかりなのだとか。

 

なんとなくもやもやした気持ちになるのだが, 嬉しい発見もあった。

 

後からやってきた彼らの友達が職業軍人だったのだが, 彼はジャワの人間であった。

アチェ州は津波が来るまで長く独立戦争をしていた。

特にロクスマウェ北スマトラ州に近い街であるためインドネシア軍の基地が置かれて, その前線でもあったのだ。

 

この戦争には日本人も無関係ではない。インドネシア独立戦争に多数の残留日本兵が加わったのはよく知られているが, アチェ州のインドネシアからの独立戦争にも初期に協力していた日本兵がいるからだ。

 

そして近年まで独立戦争は続くのだが, スマトラ津波を機に独立勢力は戦争を辞め, 地域の復興では存在感を見せたインドネシア政府の力がアチェの住民に認められた。

 

和平が結ばれ平和の時代が訪れるのだが, そうした悲しみの歴史を経て, こうして中央政府のあるジャワ島出身の軍人アチェ州の住民日本人一つのテーブルを囲んでお茶しているという事実には歴史を考えれば大変感慨深いものがあると感じた。

 

少なくともインドネシアがこれまでの悲惨な歴史を乗り越えて未来へしっかりと前へ歩んでいる事を確かめられたのはこの旅での大きな収穫であった。

 

 

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